『ペリーがペンキを持ってきた』

 

 

ペリーがペンキを持ってきた

 

わが国で洋式塗料が用いられたのは・安政元年(1854年)、わが国に開港を求めて再渡来した米人ペリーと幕臣大学頭林健とが会見した、神奈川宿(横浜)の本覚寺境内に急造された談判所の建物であったとされている。この建物の塗装を行なったのは、江戸京橋の渋塗職、町田辰五郎である。始めは色胡粉で下塗り・中塗りを行ない、その上に桐油と荏油(えのあぷら)でツヤ出し塗りを行なったが・出来ぱえがよくなかったことから、ペリ_の率いる米艦アンダリァ号からペンキとボイル油を該り受け、艦隊員の指導を受けて塗りなおしをした・これがわが国における洋塗装の始まりとされている(『日本塗料工業史』による)・今から約130年前のことである。しかし・ペリー来航の200年前には、すでに長崎出島にオランダ人商館が建造されてあり・その仕上げにペンキが使われていたのではないかとも推測されている・現にペンキという用語は、オランダ語の油性ペイントを意昧するPek・Pikから転化したものであるという事実からしても、わが国にペンキがもたらされたのは・ペリーの来航前であったともみなされるが、確かな記録は残っていない・いずれにしても、目本人がペンキに接したのは古くて300年前、実際に目本人の手で塗ったのは120年前ということになる。町田辰五郎は本覚寺の塗装完遂の功労によって、その後、各国公使館などからペンキ材料購入の免許が与えられ、わ我国ペンキ職の開祖として多くの弟子を養成したという・わが国における洋塗装の始まりは渋塗職、漆工職によって支えられたのである。

 

それから100年以上のち、J・トーマス・ペリーというアメリカ青年が日本にやってきた。彼は家具デザイナーとして日本で仕事をしようとやってきた、だが彼が家具デザイナーとして日本で知られる様になるにはかなりの年数がかかると思う、私はある友達から頼まれて彼の仕事の依頼を受けることとなった。彼との打ち合わせの時最初に彼の奥さんが一緒に来られた。ペリー・史子さんである、私があまり英会話ができないのと彼が日本語がたどたどしいのとで詳しい話は、それからも史子さんを通じて行った。彼の家具に対しての知識はなかなか素晴しい物で私が長年疑問であったことがいくつも簡単に謎説きができていった。そして彼との仕事を通じて最も関心したのが塗装に対しての知識経験であった。私もこれまで日本での知識の範囲での色々な塗装 NC ウレタン エポキシ UV アミノ 等の化学塗料やワックス バニシュ オイル 等知識経験はあったが、自然塗料や日本に伝わらなかった昔の塗装方法など そして自然素材から塗料を造り出す技法までは詳細まで知らなかった。

 トーマスは、アメリカでは、家具の修復を仕事としていたらしい。家具の修復の仕事は指物師にとってたいへん難しい仕事で単なる家具の修理でなく 100年以上前の家具の修復は、家具の材料 工法 デザインを理解しその年代の材料で補修をしなければならない。パリのベルサイユ宮殿の周り建物は、宮殿の調度の為の家具の収蔵庫でその中には家具の修復用の材料 特に木材 突き板が製作当時の物が保管されていたという。ただ塗装材料だけは保存が出来ないので製法のみ残されていた。彼がアメリカで家具の仕事から修復に興味を持ったのもその数多いマテリアルの勉強と習得が大きな理由だったようだ。彼がこれからデザイナーとしての仕事で彼しか知らないマテリアルが多く使われると思う。

 そのマテリアルを製作する側の人達に正確に理解して伝えることが出来るかが彼のこれからの課題だとおもう。彼はデザイナーです、いろんな塗装を知っているペンキ屋のトムさんじゃない。

彼が知っている塗装のマテリアルをただ教えてもらうだけで無くトムがデザインした作品の中から塗装の文化や技術、背景を学んでほしい。

 130年前、ペリー艦隊の乗り組み員から教わったペンキ、それが100年以上経ってひとりのアメリカ青年により、教科書じゃ無く、直接作品を造りながら学ぶ機会を得たことは、私達家具製作者としてたいへん有り難いことです。もっと彼に家具のデザインの依頼が来ることを願います。

J,T,ペリーにデザインを頼むと作品に使われる木の話し、塗装の話し、歴史の話がきけます。彼と物造りをしていく中で日本人が猿真似で造った洋家具のほんとの姿がが見えて来るかも知れない。

 

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